元ガリガリの筋トレ日記

【読書メモ】『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』ジョセフ・ヒース+アンドルー・ポター著

 

1. 感想

 本書は哲学者であるジョセフ・ヒースとジャーナリストであるアンドルー・ポターによって書かれた、いわゆる評論文であるため、「カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか」という問いに対して、科学的な証拠や社会学的な重厚な論理を持って答えているわけではない。著者らも後記において以下のように記載してある。

ご指摘のとおり、カウンターカルチャー的嗜好に関する議論は単純化してある。(中略)これらをまとめた理由の一つは、僕ら二人とも六〇年代の理想に強い影響を受けた家庭で育った子供として、自分が育った環境の包括的なイデオロギーを、単に宇宙の構造の一部ではなく理論と見ることに気分が高揚したことだ。(p393)

 上記のように、本書の論理基盤は筆者らの感覚である。そのためアメリカ社会に生きていない私にとって、本当にそう言えるのか疑問に思う点はあった。しかしながら、筆者らの「カウンターカルチャーの反逆は何も変革しえなかった、むしろ害悪であった」という主張は私の感覚を言語化してくれたと思った。子供の頃からテレビ番組や映画といった表象文化が好きな私は、20代前半まで、これらの表象文化を生きる上での参考としていた。しかし、これらの表象文化は私の現実世界における問題に対してなんら良い影響を与えてくれたことがないことに気づいた。これらの中には具体的な解決策がないのである。また、勧善懲悪などの極端な二極化や一発逆転の物語など、物事が単純に描かれている。現実世界の問題は善と悪に分けることのできないグレーゾーンなものであり、また多くの場合、変革をもたらすのは地道な努力である。そのため、これらの表象文化で描かれる思想は現実世界にとって役に立たないどころか害悪である。

 私の主張は日本の表象文化に対するものだが、これらに描かれる極端な思想を政治や経済に反映させれば、本書で書かれるカウンターカルチャーの反逆と同一の問題が生じる。抜本的な文化的解決を望むあまり、ベターな解決策(法により規制など)を放棄する問題である。この問題は、日本の極端なフェミニズム運動や憲法第9条の議論において見られる。彼らはグレーな解決策では納得できないため、極端なまたは現実的でない解決策を主張していると理解できる。

 カウンターカルチャー的思考は、感情に強く訴える力があるため、個人の問題においても集団の問題においても陥りやすい思考であると思う。本書で主張されている通り、この思考は何ら具体的な解決をもたらさず、むしろ事態を悪化させる。そのため、個人においても集団においてもこの思考に陥らないよう注意する必要がある。表象文化やカウンターカルチャーはあくまでエンターテインメントの枠にとどめるべきである。

 

2. 筆者らの主張と要約

 筆者らの主張は序章において明確に示されている。

本書では、カウンターカルチャーの反逆の数十年は何も変革しえなかったと主張する。それはカウンターカルチャーの思想がよって立つところの社会倫理が誤っているからだ。我々の生きる世界は、(中略)もっとずっと平凡なものだ。(中略)文化は妨害されえない。妨害すべき「単一文化」や「単一システム」なんてものは存在しないのだから。(中略)この種の社会では、カウンターカルチャーの反逆は無益なだけではなく、確実に逆効果だ。人々の生活の具体的な改善につながる政策からエネルギーと努力を逸らせてしまうのみか、そのような漸進的変化を総じて軽んじる風潮を促す。(p14)

 注意したいのは、後記で述べられているように、著者らはカウンターカルチャー的思考の政治的批判を行なっているのであり、決して文化的批判を行なっているのではない。

ともかくも本書の中心となるメッセージは、左派は文化的な政治をやめなければならない、ということだからだ。ここで提示しているのは、カウンターカルチャー的思考の文化的批判ではなく、むしろ政治的批判である。カウンターカルチャーが長年にわたって膨大なエンタテインメントを、あるいは偉大な芸術さえも生み出してきたことを否定する意図は毛頭ない。(p390)

 したがって、本書の中心となるカウンターカルチャー的思考への批判は、それが混乱を巻き起こし、「ディープさ」も「ラディカルさ」も足りないという理由で、あらゆる社会問題に対する実践的な解決策を左派に拒否させていることだ。(中略)このせいで左派は、避難すべきあらゆる不作法や社会的逸脱を擁護するか、少なくとも根拠のない弁明をさせられるはめに陥っている。これはほかの何より選挙場の大きな障害となった。(p391)

 また、訳者あとがきにおいて、カウンターカルチャーの定義や著者らの主張の要約が十分なされている。

カウンターカルチャーの定義について

狭義には、1960年代から70年代初めのアメリカで、人種問題の複雑化、ヴェトナム戦争の泥沼化、公害問題の深刻化など、行き詰まりを見せる社会の支配的(主流)文化に敵対し反逆する文化をさす。(p416)

・著者らの主張の要約について

 資本主義経済における消費主義の横行とテクノラシーの支配する抑圧的な大衆社会に対して、カウンターカルチャー的な批判の方法論である「反逆」は、現実問題を解決するどころか、かえって悪化させてきたのだ、と著者たちは主張する。

 反逆というスタイルは既存の社会への服従=順応を拒み、差異化を追求するがゆえに、むしろ競争的消費を増大させ、エキゾチックな異文化の商業化すら招いてしまう。そしてグローバル化をつづける21世紀の多元的世界では避けて通れない集合行為の問題を解決していくためには人々の信頼と協力が求められるが、それを実現する具体的な制度・ルール設計を根底から否定するカウンターカルチャー的思考には、未来の展望はない。(p416~417)

 

3. 気になった箇所

 

第1章

・19世紀まで急進主義的な政治活動家が問題としたのは、もっぱら統治者であり、大衆は改革の仲間であった。しかし、20世紀後半の急進派は、大衆を問題として見始めた。

19世紀のアナーキストたちも、現代の意味でいう真のアナーキストではなかった。社会秩序にも個人主義者にも反対していなかった。多くの場合、国家を打倒したかったのですらない。彼らはただ、社会秩序の押しつけと、初期近代ヨーロッパの国民国家軍国主義に反対だっただけだ。(p25)

18世紀および19世紀の急進的な政治活動家や思想家がめざしたのは、このゲームを排除することではなく競技場を公平にすることだ。結果として、近代初期の急進主義的政治は、とことんポピュリズム的な性格のものとなった。目標は、人民を統治者に背かせることだった。

 ところが20世紀後半に、急進主義的政治はこの思考パターンから大きく転換した。大衆を盟友扱いするのでなく、かつてないほどに疑惑の対象としだすのだ。程なく一般大衆はーすなわち「主流」社会はー解決策ならぬ問題と見られるようになった。啓蒙時代の偉大な哲学者たちが「服従」を、暴政を許す卑屈な性癖だとののしったのに対し、急進派たちは「順応」をはるかに大きな悪徳とみなしだしたのだ。この驚くべき反転の物語は、カウンターカルチャーの神話の起源を理解するカギを与えてくれる。(p26)

 

マルクスイデオロギー論が危機に瀕した時にマルクス主義理論家たちから主張されたヘゲモニー理論(文化全般がブルジョワイデオロギーの形式を反映しているため、これを棄てなければ労働者階級は解放されないという考え)に、最初は耳を傾けるものはいなかった。しかし、ナチスドイツのプロパガンダ放送、アメリカ兵捕虜の共産主義への寝返りと洗脳について知られていく中で、広告とマスメディアによる心理操作と支配に対する恐怖が広がっていった。それにより、ヘゲモニー理論が見直された。

たとえば、1920年代にはアントニオ・グラシムが、こんな主張をしはじめている。資本主義は労働者階級に、経済運営についての特定の誤った信念を吹きこむのではなく、完全な文化「ヘゲモニー」を打ち立て、そして次には体制を強化することで、誤った意識を植えつけたのだ。要するに、文化全般がー書籍、音楽、絵画もーブルジョワイデオロギーの形式を反映しており、これを捨てることが必要だ。でなければ、労働者階級は解放されない。従って「新しい文化の創造が必要」だ、とグラシムは言い張った。

 初めは、この主張に耳を傾ける者はいなかった。国家は「ブルジョワの経営委員会」でしかないというマルクスの主張は、妄想気味とされた。ブルジョワが文化全般を支配できるという考えは、いっそう突飛に思われた。(p29-30)

マルクス主義者から見ると、広告はただ単に特定の商品の販売促進というだけではない、資本主義体制のプロパガンダだった。(p35)

そうして1950年代の広告の出現は、グラシム流の「ヘゲモニー」理論に新たなチャンスを与えた。(p36)

 

カウンターカルチャーの思想は、人々に自身の隷属状態を愛おしむよう教えてきた「社会」つまり順応から逃れることを主張する。そして、そうするために、文化を丸ごと否定する。そのため、貧困、生活水準、医療の普及といった伝統的な左派の関心事は「皮相的」とされる。(p39-40)

 

・第一世代のヒッピー達がドレスコードを破ったのに、「体制」はなぜ崩壊しないのか、という問いに対する答え

そのひらめきこそ「取り込み」理論であった。(中略)体制はまず反抗のシンボルをわがものとし、その「革命的」意義を抜き取ってから、それを商品化し大衆に売り戻すことで、反抗をただ同化させようとする。そうやって代償的な満足を高め、大衆が反体制側の新しい考え方の革命的核心になど目もくれないようにすることで、カウンターカルチャーを骨抜きにしようというわけだ。(p43-44)

 

第2章

カウンターカルチャーは、フロイトの思想をもとに、ナチズムは自然進化=超自我が進んだ先であると考え、抑圧はファシズムを生み出すと考える。そして現代社会(アメリカ)とファシズムを結びつける。

もしもフロイトの存在がなかったなら、おそらくカウンターカルチャーの思想が花開くことはなかっただろう。(p46)

フロイトは人間の心が、イド(エス)、自我、超自我の三つの部分からなると主張した。(p47)

だがロシアと違って、ドイツは周縁国ではなかった。ヨーロッパでも屈指の合理的な気質を持っていることはもとより、文化の洗練された国だと広く認められていた。だから多くの評者はナチズムをヨーロッパ啓蒙主義からの逸脱と見なすことを拒んだ。彼らの見方では、ナチズムは現代社会の自然進化を表していた。(p61)

 

カウンターカルチャーは、「意識が変われば文化が変わる。文化が変われば制度が変わる。」と考える。そのため、制度を変えるため、意識を変えられるドラッグを使用する。

「抑圧の政治」は「搾取の政治」と似ている。ただし、違うのは、抑圧の政治では不正の源を社会的ではなく心理的なものと考えるところだ。したがって、まず必要なのは、具体的な制度の変更ではなく、抑圧された人たちの意識の変革である。(p71)

文化と心理学が、制度を決定づけると考えられている。だから経済を変えたければ文化を変えることが必要だ。そして文化を変えたければ、基本的に人々の意識を変えなければならない。ここから、二つの決定的な結論が導かれる。第一に、文化的な政治のほうが伝統的な分配の公正の政治よりも根本にかかわる、ということ。(中略)第二に、そしてもっと役に立たないが、人の意識を変えることは、文化を変えるより重要ということだ。(p72)

今でこそ信じがたいが当時は本当に、マリファナLSDの使用が広まれば、すべての社会の問題は解決されるものと信じられていた。(p72)

 

第3章

カウンターカルチャーの活動家は「ルール」化(抑圧)を拒絶するせいで、政治のあらゆる分野に悪影響を与える。

この論争の双方ともが考え損ねているのが、強制は邪悪な勢力がなくても必要かもしれないということだ。完全に自由で平等な個人間でも、相互作用を統制するために、強制的な行動規則を採用するインセンティブを持つことは多々ある。だから社会に強制が存在することは必ずしも支配のしるしではなく、悪を統制する必要があるとか、一つの集団型の集団に意志を押しつけていることの表れというでもない。多くの場合みんなが強制的なルールに統制されているときの方が、みんなに都合がいい。実際、好きにするようにと任されても、人は自ずとルールを生み出して、賞罰制度を備えた新しい社会秩序を築く傾向がある。この種のシステムが、個人としても集団としても利益になるからだ。(p87)

この種の状況は「集合行為の問題」と呼ばれる。誰もが特定の結果を得たいと思っているが、それをもたらすのに必要なことをする動機は誰も持っていない、という場合をさす。こうした状況で最もよく知られる例が、いまや有名な「囚人のジレンマ」だ。(p89)

日常の社会的相互作用のルールをもっとつぶさに調べると、驚くほど多くのルールが、集合行為の問題を取り除くことを目的にしていることがわかる。(p91)

これらのルールで大切なポイントは、ルールが設ける制約から誰もが利益を得ているということだ。(p92)

だから、意味のない、もしくは旧弊な慣習に意を唱える反抗と、正当な社会規範を破る反逆行為とを区別することは重要だ。つまり、異議申し立てと逸脱は区別しなければならない。異議申し立ては市民的不服従のようなものだ。それは人々が基本的にルールに従う意思を持ちながら、現行ルールの具体的な内容に心から、善意で反対しているときに生じる。彼らはそうした行為が招く結果にかかわらず反抗するのだ。これに対し逸脱は、人々が利己的な理由からルールに従わないときに生じる。(中略)逸脱行為に陥る人の多くは、自分が行っていることは異議申し立ての一形態だと、本気で信じているのだ。(p93-94)

さて、これは逸脱か異議申し立てか?この二つを区別するために適用できる、とても簡単なテストがある。(中略)「みんながそれをしたらどうなるかー世界はもっと住みよい場所になるのか?」もし答えがノーなら、疑うべき理由がある。これから見るとおり、カウンターカルチャーの反逆の多くは、この簡単なテストに合格できない。(p95-96)

 

・ルール化の他のメリットとして認知的緊張を軽減してくれることが挙げられる。(p106)

 

第4章

大衆社会批判は、過去40年にわたって、消費主義のきわめて強大な原動力となってきた。(p116)

 

・消費主義は「差異」への欲望に動機づけられる。そして、カウンターカルチャーのいう「非順応主義者」の方が消費的である。

たいていの人は周囲になじむためのものより大勢のなかで目立つためのものに大金を費やす。差異を与えるものにお金を使う。(中略)つまり消費主義は、互いに相手に負けまいと張り合う消費者の産物のように見える。問題を生み出すのは競争的な消費であって、順応ではない。(p121)

 

・以下は気に入ったパンチライン

人々が本当は必要としていない(と批評家が言っている)消費財のリストは、いつ見ても中年の知識人が必要としていない消費財のリストにしか見えない。(中略)それらはまさに彼らには商品よりも思想にこだわり、刺激される傾向があるからだ。

 すなわち、消費主義はつねにほかの人たちが買うものについての批評のように見える。そのために、いわゆる消費主義批判は一皮むけば俗物根性、もっと悪くしたら清教徒きどりのそしりを免れがたい。

 

・ウェブレンの考えでは、消費主義の本質は、集合行為の問題である。(p133)

 

・地位へのこだわり(攻撃的消費)とは無関係な防御的消費(他の人から生じる迷惑から身を守るための競争的消費)がある以上、競争的消費から人々が抜け出すことは困難。(p136-137, 本書では防御的消費の例として事故での死亡率を下げるため大型車を買う例や安全な地域に住む例が出されている)

こうした例が示しているとおり、競争的消費は往々にして、人々の同期とは関係がない。求める財の性質それ自体により課されることが多い。フレッド・ハーシュは著書『成長の社会的限界』で「物的」財と「局地」財とを区別すべきだと主張した。(中略)数量は限定されているから、このような局地材の入手は、つねに相対的な支払い能力で決まるのだ。地位は間違いなく、局地財の一つの類型である。不動産もそうだ。(p140)

この演習のポイントは、競争的消費に従事しているかどうかの問題は、その人が競争的消費に従事していると考えているかどうかにはまったく関係がないと示すことだ。競争的消費は必ずしも衒示的消費ではなく、羨望に動機付けられていなくていい。(p141)

 

・美的判断も「差異」の問題である(上層と下層に分ける目的でなされる)。そのため、趣味の良さも局地財の一つである(皆が同じ物を持てば、趣味が良い人は存在しない)。

美的判断はつねに際の問題だとブルデューは主張する。下等なものと上等なものを区別することだ。(p144)

 

カウンターカルチャーにおいても差異は重要である。なぜなら、個人主義が尊ばれ、順応が見下されるため、「主流」でないことが重要となる。しかしあるカウンターカルチャーが社会で受け入れられた場合、そのカルチャーはもはやカウンターカルチャーではなくなる。そのため、新たなカウンターカルチャーを創出しなければならなくなる。このサイクルが競争的消費の主な駆動力となる。(p149-150参考)

 

第5章

・筆者はカウンターカルチャー思考の過ちの例として『ボーリング・フォー・コロンバイン』を挙げる。この作品においてムーアは、文化的変化(アメリカの恐怖の文化)を求めるために、制度的解決(銃規制等)を良しとしていない。

結局ムーアは、銃規制に反対する立場をとることになる。銃規制は皮相的すぎるのだ。(中略)僕らはここに、ムーアがカウンターカルチャーの重大な過ちを犯しているのを見てとることができる。彼は自分が直面している問題の完全に実行可能な解決策をー同胞の生活を改善することが明らかな解決策ーそれがラディカルでないとか「抜本的」でないという理由で見送ってしまうのだ。文化の革命的な変化を強く求めるばかり、それ以下のものは拒絶する。これこそ極端な反逆である。(p165)

 ムーアは、銃規制は重要ではない、カナダには数百万挺の銃があるが、銃による暴力がほとんどないのだから、と主張する。この論は不正と言っていいほど率直さを欠いている。カナダにはきわめて厳しい銃規制法があることに、ムーアは言及していない。カナダには800挺の銃があるかもしれないが、そのほぼすべてが単発式ライフルか散弾銃であり、田舎の鍵付きの陳列棚にしまい込まれている。拳銃やセミオートマチックはほとんどなく、アサルト・ライフルなど皆無だ。コロンバイン高校の銃乱射で使用されたTEC9拳銃は、カナダでは入手不可。市民はどんな理由があろうとも、カナダの都市で弾丸をこめた銃を持ち歩くことはできない。ムーアはオンタリオ州サーニアの射撃場の場面を示しつつも、そこにいる人たちは誰も、拳銃をビルの外に持ち出すことは許されないことには言及しない。

 つまりカナダとアメリカの最大の違いは、文化的ならぬ制度的なものだ。むしろ文化の違いは、法律と制度の違いの結果である。カナダ人が恐怖の文化のもとで生きてないのは、アメリカとは違うテレビ番組を見ているからでも、奴隷制の遺物がないからでもなく、しじゅう撃たれる心配をしなくていいからなのだ。(p165-166)

 

第7章

・「クール」であることも局地財であり、非順応主義の追求に基づく。

人がクールになれるのは、ほかの人たちがー実際には、ほかのたいていの人たちがークールではないからだ。だが、時間を超えた継続性を重視する従来の地位階層とは違って、クールはたゆみない非順応主義の追求に基づいている。文化理論家のジェフ・ライスが述べた定義のとおり、個人であることが他人には関係なしに自分の望む自分であることではなく、むしろ何でもいいから他人がやらないことをすることと理解されている世界での「個性の普遍的なスタンス」である。クールな人とは大衆社会とわざと対立した人だ。(p221)

 

・クールなボヘミアンのクリエイティブ人間は、一般的に資本主義の象徴として批判の対象となるブルジョワエリートよりも、資本主義の精神と調和している。

 裏を返して言えば、腰を落ち着けて移動しない、生活習慣も様式も基本は古い英国貴族を範としたブルジョワのエリートは、資本主義それ自体の力でごく早くに絶滅する運命にあった。絶えず移動していて、個人主義で、自由奔放なボヘミアンは多くの意味ではるかに、真の資本主義の精神と調和している(p233)

しかし理解すべき最も重要なことは、この階層区分は自らを糧として、いよいよ不均衡に経済的影響力を増すにつれて、強くなる一方であることだ。それはこのクリエイティブ・クラスが、旧弊なエリートのいささか貴族めいた生ぬるさとは好対照に、たゆみない資本主義を志向する精神に駆り立てられているからである。(p236)

 つまり、もってまわった言い方だが、ボヘミアンの価値体型ークールのことーこそが資本主義の活力源ということだ。(中略)たしかに本物のクリエイティビティはとことん反逆的で破壊活動的だ。それというのも創造性とは、既存の思考や生き方のパターンを壊すものだから。資本主義自体を除いて全てを破壊するのだ。(p237)

 

第9章

カウンターカルチャーのでっち上げにより、全ての先住民族は「平和的」イメージがあるが、ユロック族のようなきわめて商業的な民族や、想像を絶するほど残虐な民族もいる。

「カリフォルニアではどこでも、お金が重んじられ、影響力を打ち立てている(・・・)そのため[カリフォルニア人にとって]何よりの関心事は財産だ。暇さえあれば、お金のことを考えている。いざとなれば、お金が頼りだ。払い戻しを要求したり、支払い義務を回避する機会を絶えずうかがっている。この件の追求にあたっては、どんな卑劣な手段や狡猾な策にでも訴えるつもりだ」

(中略)この一節は人類学者のアルフレッド・クローバーの著作から取ったものだ。これはカリフォルニア北部の太平洋岸からクラマス川の下流に住んでいた漁と狩りの民、ユロック族の伝統文化に関する記述である。ヨーロッパ人と接触するよりはるか前から彼らは「今日の近代工業社会のような商業的な考え方の文化を持っていた」。そこでは、人の所有物の一つ一つに必ず値段がつけられた。妻や子供にもだ。とりたてて刑法というほどのものはなく、通商だけがあった。「あらゆる損傷、あらゆる特権や不正や侵害が計上され、保証された」。公共の宗教も、聖なる儀式もなかった。あらゆる公的な行事は富の衒示的陳列のためだった。(p303-304)

 

結論

地球温暖化のように、各国が規制しなければインセンティブがなく、誰も解決しようとしない種類の問題については政府によるグローバルな国内政策が必要である。

だが、現代の世界が直面している最も深刻な政治課題は、要するに集合行為の問題であり、分権型のローカル民主主義ではこうした問題は解決できない。というのも、往々にしてそれは、むしろ問題の原因であるからだ。地球温暖化がいい例だ。個別の企業は温室効果ガスの排出を減らすことに興味がない。地球温暖化の費用は地球上に住む全員に分散されているからだ。また、同時に、個別の国は、他国が同じことをする保証なしには、国内のエネルギー産業に規制を加えるインセンティブを持たない。地球温暖化の解決は、地球上の温室効果ガス排出者すべてを拘束する合意のみによって達成できる。必要なのは、ローカル外交政策ではなく、温室効果ガス排出に関するグローバルな国内政策だ。

 

後記

カウンターカルチャー的思考の3つの特徴(p395)

①内容や形式にかかわらず、ルールをひとしなみに抑圧的なものとして扱う習性がある

②自然的調和の力に対する愚直なまでの信頼がある(トップダウンの統制より、社会の自主規制を好む)

③規則的で予測できるものより不規則で予測不能なものをむやみに特別扱いする傾向がある